高校3年間はケガとの闘いの毎日
治療の世界に興味を持ったのは高校、
野球部時代の肘の故障がキッカケ。
幼少から野球ひとすじ ではなく、
軟式テニス・バスケット・水泳等をやり
野球部には所属せずリトルリーグで嗜む
程度のレベルでしたが、
草野球で大人が数人混じるチームの中で
左腕から投げるボールがちょっと早くて、
水島新司さんのマンガで見聞きし、
フォーク・カーブ・シュート・さとるボール
見よう見まねで変化球を何でも投げた結果、
肘に痛みを覚え左腕を伸ばせずにいました。
どう言う状態・症状なのかをは理解出来ず、
その事を親や兄には言えずに・・
そんな状態の中、知人を介して
大学から附属高野球部の監督の
命を託された人物を紹介され、
東京で進学が決めていた学校を
辞退してまで、15歳からの3年間は
急遽 岩手県北上市で寮生活の
夢は”甲子園”へと変わりました。
野球部入部の初日、
新入生のライバル20数名。
県内・近県 中学野球の特待生がズラリで
一般入部は私を含め4名だけ。
この日を境に、熾烈な生存競争が始まり
特待生に負けまいと必死に食らい付き
無理を重ねた結果、
体力面では同年代ではトップになりましたが・・・
’80年代は現代の様なネット社会ではなく、
精神根性論のスポ根でしたから、
トレーニングやメンテナンスなどは、
知れ渡らずの情報不足の石器時代の頃。
地方で寮生活を送っている15歳は私などは
まったくの無知。
うさぎとび や 水分を摂らせない なんて当たり前
間違った練習や、逆療法の見当違いのケア etc.
いまでは やってはいけない典型的な根性論主流・・
結果、疲労の蓄積とオーバーワークから、
元々痛みを覚えていた肘だけでなく
肘をかばったカラダの使い方から、
肩・腰・膝をも傷めていました・・・
その他、今では社会問題にもなっていますが
部内での体罰などは、当然の様に日常的に。
それは、寮内も同様で ひどい時には部内と寮内で
同じ日に体罰も何度となく体験し、
肉体的・精神的に摩り減っていき
ライバル達もこの影響からか、特待生にも拘らず
ひとり また ひとり と去り、気付けば、
2年に進級するまでには
20数名居た同期部員の人数は、わずかに5名。
自身のケガを理由にしていられる状況などでは・・
そして地方の妬みや嫉みからなのか?
東京から来た人間は ひ弱 と揶揄されており、
意地も当然あったのでしょう。
2年の秋の新チームでは わたしは副主将となり、
故障箇所を癒やす前にチームを支える立場から、
更なるハードワークで、カラダのケアを優先
させているどころではありません。
充実感などは一切なく、
あるのは、痛みとの闘いの日々だけでした。
カイロプラクティックとの出会い
2年の夏の大会前に大学の野球部から、
練習の手伝い名目で現役大学野球選手が
いらっしゃいました。
大学生と高校生の体格差は歴然!
明らかにカラダの大きさ異なり、
選手生活を送る中で大なり小なり
ケガはあるものの、
その時、いかにカラダのケアを行うか
心構えについても教わりました。
このキッカケから
メンテナンスの重要性を解かれ、
気付かされた事は
いまも鮮明に記憶しています。
その大学選手の方は、カラダケアに関する
知識も当然ながら、地方高校球児に比べ豊富で、
メンテナンス方法の1つに、
”カイロプラクティック” なる言葉を
初めて耳にしました。
冬は寒い地域ですから、カイロと言えば
ホッカイロくらいしか思い浮かばず・・(笑)
ただ、この時期は朝から晩まで大会に備え
合宿練習漬けの日々と、
寮生活を送る学生の身で、夜間の外出も出来ず、
当時は近所にATMを備えたコンビニさえも
見当たらない始末で、
メンテナンスを受けたくとも受けられず、
ただ日々が過ぎて行くだけでした・・・
夏の大会・秋の大会・東北の寒く長い冬と
時間は経過すれども、いっこうに
メンテナンスケアに充てる時間は
訪れない暗い青春でした。
この報われない つらい時期を過ごしたからこそ、
いま考えるとアタマの片隅にずうっと、
カイロプラクティックと言う言葉が
残っていた様に思えるのです。
甲子園への夢と東北での苦痛の3年間を終え、
我慢の報酬は 大学への進学 にカタチを変えました。
大学の準硬式では短命、サークルでは騙し騙しで
4年間野球をやりつつ、
社会人となり、1年目から北陸3県を営業車で
移動することが日常化しており、
多くのサラリーマンが辿る運動不足の日々に
浸かり始めていました。
地方赴任、移動は常に営業車かマイカー。
そんな矢先、右の腰に鈍い痛みが高校以来の
再発・・・
何も起きていない時こそ大切である
メンテナンスの意義と
カイロプラクティックの言葉に
大いに関心と興味を抱いていた、
薄れていた当時の記憶が
不意な出来事からフラッシュバックし、
不摂生を悔い 学生時代とは違う
自由に使える時間を得て、
カイロプラクティックの施術を受ける
行動へのキッカケとなりました。
このキッカケから、
頭の中の片隅に残っていた、
カイロプラクティックへの関心が 憧れへと
学びへの願望が芽生えたと思える出来事だったと
今では記憶しています。
その想いは、
治療家を目指すきっかけ
・同じようにカラダで悩んでいる人をラクにしてあげたい
・もっとカラダのことを知りたい
・自分でもカイロプラクティックをやってみたい
・ありがとうと言われる仕事がしたい
と いう想いを強く持ち始めていた時でもあります。
日に日に強くなる募る想いと、自身が経験した
高校時代のひとりで抱える痛みと不安の、
つらく長い時間だったことこそが、
人の体に触れ、カラダで悩んでいる方の
不安を少しでも軽くしてあげたいという、
治療家の世界のドアをたたく決心へと突き動かしました。
仕事と学業の両立の難しさ、学ぶ楽しさ
学校選びは 高校時代の鮮烈な記憶だったことから
カイロプラクティックを日本で学べるということで、
大川カイロプラクティック専門学院に入学してからは
猛スピードで時間が流れて行きました。
仕事は継続していましたので、
週末に学べるカイロプラクティック学科を選択し、
学ぶ時間に充て必修科目と実技をひたすら習得の日々。
野球部時代のがむしゃらさが
思い出されます~
仕事では 年4回訪れる繁忙期になれば
深夜0時でも職場を離れられないことが多々発生、
年末はクリスマス・忘年会を楽しむなんて(笑)
禁句でしたね~
学業でも毎回の座学の後に行われる筆記テストに合わせ
年に4回ある筆記テストと実技テストが重なると、
アタマもカラダも余裕が無くなり始め 両立が
とても苦しい時期が何度も思い出されましたが、
支えたのは、10~20代の頃とは違う 学ぶ
目的意識がまったく違い 楽しみだったことです。
(この体験を学生時代に得られていたのならば
ボクはさぞかし違う人生を送っていたのでは?と後悔)
肉体的な疲労はあるものの、精神的な負担はそれほど
感じることもなく、
とても充実していました。
開業~現在に至る想い
苦しみながらも順調に学校の単位取得も果たせ、
在学中のインターンから、卒業後も現場経験を
積ませていただきながら、
地元 渋谷区の神泉町に2009年に開業。
現在は、より多くの世代の方々に施術を
受けていただけるように、
からだに負担の少ない施術方法 も取り入れ、
ご年配の方はもちろん お子様・妊婦さんにも
対応する日々を送っています。
開業は、ゴール達成ではなくスタート。
何年経っても発展途上で修正する毎日です!
今も、少しずつ理想とする院作りに奮闘しています。
目標を大きく持ち、理想と現実をマッチさせる様に
努力を忘れずに。
開院時からの想いである
・誠実に1人1人に真剣に接する気持ちを忘れない
・お悩みの解決に努める
・その方が笑顔で趣味やお仕事に就ける様に貢献する
理想の整体院を追い求め、努力を続けること、
学び続けることを、心に刻み
毎日お越し下さる皆様の期待に添えるように
施術に懸命に励んで来て、
おかげさまで
2009年より現在までに およそ1万2500人を超える
方々に来院いただき、
約90% (89.6%)の満足度を得ております。
現在は、カイロプラクティックの基礎知識を元に
さらに負担の少ない、
無痛リセット療法を用い、
日々お越しになられる皆様のお悩みに向き合っております。
ひきつづき、15周年を迎えられる様に、
これからも努力を重ねて多くの方々のお悩みに対して
誠実に向き合っていきたと想います。
お電話ありがとうございます、
神泉カイロプラクティック いわもと整体院でございます。